人生において虚しさを覚える瞬間
まだ生まれて20年そこそこだが、年を重ねるほどに、「虚しさ」のようなものを感じる瞬間が多い。最近特に虚しさを感じる瞬間は
「読むのが2度目になる本の内容を全く覚えていないとき」だ。
1度読んだ本をもう一度読んだ時に、傍線を引いている箇所や付箋を貼っている箇所に出会っても、全く覚えがない。少しくらい記憶に残っていてもいいはずなのに、全く覚えていない。忘れるからこそ付箋が貼ってあり、傍線を引いてあるはずなのだと思う。しかし、それが1週間前に読んだものだったりすると、本気で虚しさを覚える。
覚えていないということは、自分自身の心や頭に残っていないだけなのかもしれない。そもそも「覚えよう」という意志をもって接した情報ではないのかもしれない。
そうではないと信じて、理由を考えてみると、「接する情報が多すぎる」ということがひとつあげられる。特に4月以降、接する情報が格段に多くなった。人から得る情報、新聞から得る情報、本から得る情報などさまざまだ。
日々そういうふうに情報の雨の中で暮らしていると、情報自身を単なる「情報」としてのみ捉えるだけになってしまう。これは非常に恐ろしい。どこかの国で何かが起きたり、どこかの企業が何かをしたりしても、それは単なる情報、他人事である。話のネタとして消費していってしまう。
情報を単なる情報として捉える。これは情報に接する上で望ましい姿勢ではないと私は思う。そもそも「情報」とは何かと考えると、個人的な見解だが、それは「人に知識や判断材料を与えるもの」である。
「情報を単なる情報として捉える」とは、情報をひとつの知識、判断材料としてのみ捉えるいうことだ。
それもひとつの姿勢ではあるかもしれないが、その姿勢である限り、情報のシャワーを浴びた時に、すぐに忘れ、過去のものになってしまう。
ではどうすればいいのか。
まずは情報を「問い」として捉えることだ。
「他人事」ではなく「自分事」として。
一つの情報からより多くの問いを引き出す。だからなに?なぜ?なんのために?
一つを憶えて一つ忘れる。それは生き方としてかなり虚しい。それを避けるためにも、情報から問いを引き出す。これを日々実践したい。