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「カイシャ」のモンスター化による社会の機能不全

サイボウズ株式会社の青野慶久氏による新著。

人はなぜ楽しく働くことができないのか?その問いの先に著者がたどり着いたのが「会社」という仕組みの存在。「会社」をあえて「モンスター」「妖怪」とたとえ、その存在を改めて見つめ直し、それを乗り越えるにはどう立ち向かうかを記した1冊。

 

会社というモンスターが、僕たちを不幸にしているのかもしれない。

会社というモンスターが、僕たちを不幸にしているのかもしれない。

 

Amzonのリンク先を見ていただければわかるが、目次は以下の通り。

第1章 仕事が楽しくないのは、カイシャというモンスターのせいかもしれない
第2章 カイシャで楽しく働くためには、こう考えればいいかもしれない
第3章 楽しく働けないカイシャは、どんどん弱っていくかもしれない
第4章 サイボウズでやってきた実験は、意外と参考になるかもしれない
第5章 未来のカイシャでは、「やりたいこと」につき進む人の価値が上がっていくかもしれない

本書の見どころは読む立場によって様々なだが、若手のビジネスパーソンやこれから就職先を選んでいく学生のような立場の方には、2章~4章あたりがおすすめかもしれない。

結局はこれから個人が自分でスキルを身につけ、市場化されていく時代。それに対応しないと、個人も企業もこれまで通りにはいかない。

 

そもそも「カイシャ」とは

私たちは普段「会社」という言葉をあたかも個人のように扱い過ごしている。実際「会社」は会社法によって法人格が与えられ、契約主体になることができたり、資産を所有することができる。

ただし、現代社会はあまりにもその「会社」の存在を神格化しすぎている。「会社」という見えない存在のために、個人の生活を犠牲にし、不正会計に手を染め、「会社のために」と我慢して働き続ける状態は正常ではないというのが本書の主旨だ。

これは確かにその通りではあるが、ではなぜこのようになってしまったか?

それは20世紀以降の現代社会が産業社会であり、その主たる役割を果たす「会社」の存在によって、人々に「地位」と「機能」が与えられてきたからだ。

 

ドラッカーが説いた「社会論」

経営学の権威であるドラッカーは『産業人の未来』において、下記のように述べた。

・社会は機能しなければならない

・そのためには個人に「地位」「機能」が与えられなければならない

・そしてその社会の決定的な権力は正当でなければならない

産業社会において、個人と社会は会社の存在によって統合されてきた。

会社に所属することで、会社が個人に地位と機能が与えれ、社会は機能してきた。

そして、個人の目的、目標、理想と社会の目的、目標、理想が重なり合い、個人が社会に統合されてきた。

 

 

 

「カイシャ」のモンスター化による社会の機能不全

 ではなぜ現代のビジネスパーソンは楽しく働けないのか?

それは青野氏が本書で指摘しているように、「会社」がモンスター化したことで、個人が「会社」のために、我慢して働いているという構図になってしまっているから。

もはや会社が「産業社会における正当な権力」として、個人に対して「地位」と「機能」を与えられなくなってしまったということ。

会社が個人に「地位」「機能」を与えてくれた時代は楽だった。組織に所属し、与えられた役割を全うすることで社会に貢献することができた。

しかし、既に社会全体が大きな成長を遂げてしまった今、これまでの延長線で「会社」が活動していくにつれて、個人の目的、目標、理想と会社の目的、目標、理想にズレが生じてしまい、会社は正当な権力ではなくなり、社会は機能不全を引き起こしてしまったといえる。

 

現代の会社のモンスター化を言い当てた一節が本書にある。

「しかし、カイシャが長期間にわたって成長していくと、創業者が去ったり、出資者が増えたり、株式の所有者と代表が一致しなくなる。すると、この大きなモンスターの資産を操れるようになる。人のお金でギャンブルができるようなものです。」(P.33)

青野氏は「会社は一定の目的を達すれば解散すればよい」と述べている。

一定の目的を達したものの、その後も目的なく存在してしまうと、会社モンスターになる。存在だけが目的になり、利益をただ蓄えるだけの箱になってしまう。ただの箱なのに、その存在を崇め、個人の幸福を忘れてしまう。

 

 

 

「カイシャ」に頼らない社会は厳しい社会

会社が個人に地位と機能を付与してくれた時代は楽だったが、そうでない社会はどうなるのか。

例えば青野氏は第3章で、次ように述べている

人件費が高くなり、そして労働人口が減少している今の局面においては、もっと働く一人ひとりの個性に目を配り、市場性に基づいて給与を決める仕組みに変化する必要があります。

これは一見きれいに聞こえるかもしれないが、厳しく、個人の責任ある選択が求められる社会だといえる。企業に所属さえしてしまえば、莫大な報酬が手に入った社会ではなく、個人の価値で評価される社会。完全自由社会だ。

これはいわゆる同一労働同一賃金、雇用の流動化の流れと同一ではある。

確かに「カイシャ」は確かにモンスターになってしまって、個人の幸福を脅かしているかもしれないが、それはつまり、会社が個人に「地位」「機能」を付与する時代は終わり、自分自身がやりたいことを見つけ、社会で機能していかなければならない時代になるということ。

それは自由な社会であると同時に個人に厳しい自立と責任ある選択が求められる社会である。

ただしまだ現実はそうなっていない。個人も社会も産業社会の理想像を引きずってしまっている。

それをまず個人から「変わろう、動こう」と発破をかけているのが、本書の一番の目的だと思う。

 

 

 

「楽しい」とは?

ちなみに本書はなぜ楽しく働けないのか?がテーマだが、本書で示す「楽しい」とは何か。青野氏は次のように述べている。

カイシャが職場として提供できる楽しさとは、仲間と同じビジョンに向かう一体感、個性を活かした貢献、そしてお互いの感謝。活動が顧客の喜びを生むとともに、その先にある社会貢献への広がり。それがカイシャという仕組みを活かして得られる『楽しさ』だと思います。