Time Is More Than Money

旅・書評・仕事

英雄を称える映画?反戦映画?『アメリカン・スナイパー』の巧さ

そろそろ最近観たこいつを片付けたいのでこのエントリー。

 

アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

先週くらいに、映画『アメリカン・スナイパー』を観てきた。

そもそも観ようとは思っていなかったのだが、自分の周りで反響を読んでいて、何人かに「観た方がいい」「観て感想を聞かせてくれ」ということを言われたので観ることに。

クリント・イーストウッド監督の作品でアメリカでも大ヒット、日本でもヒット中ということもあり、映画館は満員。

 

適当な形容詞は見当たらないが一言で言えば「良い映画」だった。

だがなぜ「良い」映画と感じたのかは後から言葉にしにくい、という難しい映画だった。なので何人かに観てほしいと言われたり、友達がSNSで紹介していた気持ちもよくわかる。

自分は普段はあまり映画を見ないし、映画の感想をうまく述べられる自身はないが、備忘録も兼ねてここに感想を記しておく。(以下ネタバレ注意)

 

 

ざっくりとしたあらすじ

アメリカン・スナイパー』は米軍特殊部隊SEASに所属していたクリス・カイルという実在するスナイパーの自伝を元にしたフィクション映画である。

舞台はイラク戦争。主人公クリス・カイルは米軍史上まれにみる凄腕スナイパーで、150を超える人数の敵を狙撃してゆく。

映画も原作も、対戦車爆弾をもって米軍に近づくアラブ人の母子がクリスによって狙撃されるという象徴的なシーンから始まる。

そしてその後も何十人も殺していくが、戦場で観たあらゆる残酷な光景が帰国のたびに脳裏に焼きつき、PTSDになってしまう。

そしてそれを無事に克服しようとするが、同じPTSDで苦しむ元軍人に射殺されてしまうという悲劇の物語である。

 

際立たされた善と悪

まず、この物語はクリス・カイルという一人の軍人を中心に「善」と「悪」という二項対立が極めて明確に、色濃く為されているのが特徴的だった。

物語の序盤に、「狼」「羊」「番犬」という例を用いて、クリスの父親がクリスを諭す場面がある。

---

狼になってはいけない。すなわち人をイジメたりしてはいけない。

だからといって羊にはなってはいけない、羊は狼が来てもただやられるだけだからだ。

お前は番犬になれ、狼が来ても果敢に追い払う番犬になれ。だから弟がイジメられたとき、相手を殴ることを俺は許可する。

---

おおまかに言えば以上のような内容だ。この善と悪、

つまり「狼(=悪)」「番犬(=善)」「羊(=弱者)」という対比がクリスを中心として大きく用いられている。

 

しかしその善悪の対立は「アメリカ=善」「イラクまたはアルカイダ=悪」という国家あるいは組織間の善悪の対比ではない。

この映画はそれよりももっと明確な悪を登場させることで、クリスを正義にすることに成功している。

それが名もない「虐殺者」の存在だ。「虐殺者」はドリルを用いて米兵と関係を持ったイラク人達を虐殺していく野蛮人として登場する。

そして映画の中で最も残酷なシーンとして、「虐殺者」がイラク人の子供の頭をドリルで打ち抜き殺すシーンが有る。

 

私はこのシーンをみて「ずるい」と感じた。

なぜならこの「虐殺者」は誰がどうみても悪だからだ。ドリルで子供の頭に穴を開けて殺すという行為は悪以外の何者でもない。ただの極悪だ。

このシーンの効果は絶大で、私達が「イラク戦争」というワードを聞いた時に脳裏によぎるあらゆる疑いを一掃させる。

 

「あれ、イラク戦争の開始の理由に正当性ってあったっけ?」

アメリカが油欲しかったから始めた戦争だよね」

イラク戦争のせいで今もイラクはISILが暴れているよね」

 

こういう余計なことを映画で考えさせないために「虐殺者」という本当にいたかどうかもわからないキャラクターを登場させ、その野蛮人からクリスがアメリカやイラクの子供を守るという明快なストーリーに入り込ませることに成功している。

うますぎる。おかげでこの映画は「イラク戦争の是非の評価」という一番面倒なことをせずにすんでいる。

 

なのでクリスは常に「番犬(=善)」であり、彼の行う殺人は常に善であるという態度で物語が進んでいく。

 

 

狙撃手ムスタファの存在

だがクリスを中心とした勧善懲悪ストーリーで終わらせないのがアメリカの映画の凄さだということも同時に思い知った。それが狙撃手ムスタファというキャラクターの存在だ。

ムスタファは武装勢力に所属する、クリスと同等レベルの腕をもつスナイパーだ。そして元オリンピック競技選手という輝かしい経歴を持つ。

 

彼は戦場のあらゆる場面において登場し、その腕前で米兵たちを脅かしていく。

先に述べた「虐殺者」が子供を殺戮するシーンでも、ムスタファが米軍に対して発砲をし続けたためにクリスたちは子供を「虐殺者」から救うことができなかった。

 

それくらい大きな存在のムスタファがこの映画をより意義深いものにしていくファクターになっている。

なぜならこのムスタファ、一切喋らない。

 

そうムスタファを一切喋らせず、単なる悪とはしないことによって、ムスタファという存在がクリスと同じくらい、いやクリス以上に大きな物語をもつ存在なのではないかと観ているものに感じさせる。

だから観ている方は、クリスがPTSDになることと相乗効果で戦争への当事者意識、「戦争は一人の人生、生き方を変えてしまうほど恐ろしいものである」という印象を2倍3倍にしてくれる。

 

もしこの映画に「虐殺者」しか登場しなかったら単なるヒーロー映画だし、それだと全く感情移入できない。

ムスタファの登場によって初めてそれぞれの登場人物の背景を深く推察しようとすることができる。

 

この映画が観た人がもやもやした感想を抱いているのはこのせいではないかと思った。

イラク戦争という善悪の判断がし難いテーマと、クリスという忠誠なスナイパー。「虐殺者」という悪から祖国と家族を守るために次々と任務を遂行するが、ムスタファという相手スナイパーの登場によって果たして彼のやっていることが正しいことなのか、クリスはいったい何を守るために戦場へ行かんとしているのかという疑問を持たせてくれる。そういう映画だった。

 

だから単純に言えば、クリス・カイルという男の物語、そして兵士とPTSDの物語なのだが、ただそうではないようにさせるところが、クリント・イーストウッド監督の凄さだと感じた。

 

 

戦争におけるマクロな視点とミクロな視点(当事者の視点)

普段自分たちは戦争を国家間の争い単位でしか考えることができない。

ただ当事者の視点で見てみると「殺らなきゃ殺られる」ただそれだけである。

戦争で人が人を殺す大半の理由は「殺さないと自分が殺される」という理由がほとんどだと思う。

 

そのような戦争における本質のようなものを、アメリカン・スナイパーは強く感じさせてくれたと思う。

一方、一昨年日本でヒットした、『永遠の0』の映画版は、まったくそのような描写が為されていなかった。

永遠の0 (講談社文庫)

というのも、原作で描かれていた、撃ち落とした米軍機からパラシュートで脱出する米兵までも主人公の宮部が残酷にも殺してしまい、味方の「残酷すぎる」という批判に対して宮部が「あいつを殺さないと、あいつがまた日本軍の誰かを殺すんだ」と反駁する場面が映画からそっくり取り除かれていたからだ。

 

原作の『永遠の0』を読んだ自分としては、あの場面こそが宮部という主人公と戦争の本質をもっとも忠実に著した部分だったはずだったのに、映画では取り除かれて失望した覚えがある。

 

だからこそ『アメリカン・スナイパー』では、「殺らなきゃ殺られる」という戦争で一番わかりやすい部分を、直接的ではないにしても、強く感じさせてくれたという点で良い映画だったと思いたい。完全に個人的意見だが。

 

 

さいごに

この映画のさまざまな感想などを見たり聞いたりしていると、

「人は物事を見たいようにしか見えないんだな」ということを強く感じた。

Twitterなどで感想を観ていると、「米軍=悪」という図式が強く頭に残っている人にはそういう印象が一番強くなるし、それ以外の前提でみても結局その通りの感想になってしまう。

自分もその一人で、この映画の感想をまとめてみたときに、結局自分が普段戦争について考えていることしかアウトプットできず、強い虚無感を覚えた。

前提知識やそれまでのインプットというのももちろん大事だが、こういう作品に触れる時はできるだけゼロに近い頭で触れることを意識したい。

 

そんなことを考えてたら↓のブログを見つけて、同じようなことが書いてあって感心して本記事を書きました。


「アメリカン・スナイパー」の違和感 - poco blog

 

あと「当事者の視点」という観点でおすすめ映画を一つ。

 

キリング・フィールド HDニューマスター版 [DVD]

キリング・フィールド HDニューマスター版 [DVD]

 

 

それでは。