世界史としての日本史
これまた面白い本です。
半藤一年先生と、ライフネット生命出口会長の対談。
歴史好きにとってはこの上ない対談。思わず中身も見ずに書店で購入
半藤先生の生ける解説と、出口氏の圧倒的なfact
正直この対談が面白いのはその2人の名前でわかるので詳しい解説は控えたい。
でも本書でやはりすごいと感じたのは、半藤一利氏の圧倒的な知見や取材の経験でもあるのだが、中でも目を引くのがライフネット生命出口会長から出てくる世の中を表す数字やfact(事実)の量だ。
出口会長のと言えば仕事に効く 教養としての「世界史」等も出しているほどの歴史通。
かなりの量の本を読んでいて、その知識量も凄まじいのだが、現代にまつわる数字、例えばOECDの統計やイスラム圏の人口等、揺るがない数字をもとに世の中を解説し、歴史を結びつけるため、その説得力が違う。
改めて「事実」を知っていることの重要性を噛み締めさせられる。
世界史としての日本史とは?
本書の対談内容は一貫して日本史なのだが、通常私達が学ぶ日本史よりひとつ大きく視点を上にあげて見ることになる。
それがタイトルにもなっている「世界史としての日本史」というテーマだ。
学校で学ぶとき、日本史は日本史の中で縦の文脈でしか学ばないことが多い。
したがって我々からすると「第二次世界大戦」と「太平洋戦争」の言葉の意味の違いは中々普段考えることはないだろう。
しかし日本が戦った「太平洋戦争」を世界史の観点、当時の世界情勢の中から見ると、まら新たな視点が生まれてくる。
たとえば当時ヒトラー・スターリンといった存在はどうして生まれたのか?
なぜ英国は日本と日英同盟を結んだのか。そして破棄にいたったのか。
三国同盟は何故結ばれたか。
そういった歴史の節目を世界の流れの中で見ることで、いかに日本がうまく立ち振る舞ったのか、そして道を誤ったのか、ということが見えてくる。
日本史だけの視点ではただの結果論に終わってしまうところを、世界の流れの中でみると、今後のヒントとして示唆を与えてくれる。
そういう世界史の中の日本人のたちふるまい、という観点で読むと内田樹の日本辺境論 (新潮新書)とも重なるところがある。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという格言を身にしみさせてくれる一冊。
『総理』を読んでー孤独な意思決定者ー
SNSのタイムラインで流れてきたので、SONY Readerで購入し一読。
著者の政治記者としての圧倒的な取材力、そして中心となる安倍晋三・菅義偉・麻生太郎の政治家としての凄みに驚かされた一冊だった。
第一次安倍政権の終わりから第二次安倍政権まで
本書はTBSのジャーナリストである山口氏が2000年に政治記者になってから見てきた安倍晋三の記録である。
第一次安倍政権が発足し、崩壊し、そして現在の安倍政権となり復活するまでの様子を、政治記者ならではの視点で書き抜いた一冊である。
そしてこれは決して安倍晋三・自民党政権を礼賛するものではないが、国家の総理とはどういうものなのか、どんな人が次の首相にふさわしいのか、といった問に対するヒントを、普段見ることのできない安倍晋三、麻生太郎の会話、人物像を通して教えてくれる。
一種の興奮すら覚える第二次安倍政権誕生
第二次安倍政権の誕生は自分の中でも印象に残っているため、本書を読み進めていくとその当時の興奮が手に取るようによみがえってくる。
2012年、鳩山、菅、野田と続いた民主党政権への国民の不満が臨界点にたったころ、自民党総裁選で安倍晋三が当選し、そして衆議院解散、新政権の誕生となった。
ちょうど夏の自民党総裁選の頃、自分は大学時代のインターンの関係で永田町にいた。
橋下徹率いる日本維新の会の誕生などで国会もうねりを上げており、ここから変革がはじまるというのを学生ながらに感じていたのを記憶している。
そして総裁選自体は石破茂との争いとなっており、国民の多くが注目していた。
そして安倍政権が誕生し、現在に至っているのだが、第一次安倍政権と第二次安倍政権の安倍晋三は別人かというくらい人柄が違う。
TPP,特定秘密保護法案、安保関連法案等、国民の反対が強い法案を見事に通して見せている。
そして2014年の衆議院解散や、オバマに「深い失望」と言わせた靖国参拝等、奇襲とも呼べる戦略で国民をある意味翻弄してきた。この安倍晋三の"巧さ"は第一次安倍政権の頃にはなかった。
また、それだけではなく、目下進行中の北方領土問題や、一応手を打った慰安婦問題、アメリカとのシリア空爆に関する駆け引きなど、これまでの日本にはなかった巧みな外交術も第二次安倍政権の特徴である。
そうした安倍晋三の一挙手一投足を、本書は記している。
政治とは何か、首相とはどういう存在か、そしてジャーナリズムとは。
近年にまれに見る政治ルポをどうぞ。
女性マネージャーが甲子園のグラウンドに立てないのは女性差別なのか
こちらのニュースが数日話題になった。
これは女性差別か?
今回の問題は大き分けて2つあると思う
1つは大会規定においては女子はグラウンドに立つのが禁止と明記されている点
2つめは甲子園練習には女性はグラウンドにたてないという明記がないのにも関わらず当該マネージャーが女性だからという理由のみで退場させられた点
上記を受けて、「女性差別」「野球は時代遅れ」という批判が高野連に向けて浴びせられたもは周知のとおりだろう。
ただ、私はすこし感情的な議論にではないかと感じる。
そもそも硬球と金属バットは危ない
私は高校野球を3年、大学野球を4年やってきたが、正直硬球や高校野球のめまぐるしいノック練習は、普段練習をしていないマネージャーには危なすぎる。
今回高野連を批判して「女性も同じグラウンドに立たせるべき」と言っている人たちには上記の認識がなさすぎる。
硬球は当たれば人が死ぬこともある。普段練習している男子と、そうではない女性マネージャーではリスクが違いすぎるだろう。
5万人の監修の前で女性マネージャーが死んだら誰が責任を持つのだろうか?
そこを抜きにして今回のルールを批判するのは感情的にすぎる。
問題は古い表記と運用がまずかっただけ
今回の問題は「女性がグラウンドに立ってはダメ」という性別のみで区別した大会規定の表記と、手引に明記されていないにも関わらず、一方的に退場させた点。
これにつきるだろう。しかし大会規定に関しては安全性の配慮もあるから当然のルールであると思う。
時代に即した形にするのであれば、女性がダメと表記するのではなく大会のメンバーに選ばれている選手及び補助員として登録されている選手以外はグラウンドに立てないというルールにすればいい。
これを「女性も立たせろ」というのはおかしい。「立ちたい」から「立たせてあげる」
「覚悟があるのだからいい」という論点では混雑している駅で黄色い線の外側を無理矢理歩いていいというのと同じだ。
危険なものは危険である。何か合った時に責任をとるのは高野連である。
まずはそれを認識して、ルールに対しての批判をしてもらいたい。
なぜここまで高野連は叩かれるのか
高校野球をやってきた人間としては当然のルール運用だと思うのだが、なぜここまで高野連は叩かれるのだろうか。
それはおそらく今回の件以外での高校野球における前時代的な風土に対する批判的な見方が大きいからだろう。
例えば全員坊主であったり、喫煙で連帯責任をとらされたり、チームの為に熱い中連投をしたりと、、
戦前を彷彿とさせる前時代的な集団主義のなごりがおそらく今の時代にあるからだろう。
しかし甲子園が今でも破壊的に人気なコンテンツなのは、上記のような風土や、少し宗教的な一種の"型”が存在するからでもある。