女性マネージャーが甲子園のグラウンドに立てないのは女性差別なのか
こちらのニュースが数日話題になった。
これは女性差別か?
今回の問題は大き分けて2つあると思う
1つは大会規定においては女子はグラウンドに立つのが禁止と明記されている点
2つめは甲子園練習には女性はグラウンドにたてないという明記がないのにも関わらず当該マネージャーが女性だからという理由のみで退場させられた点
上記を受けて、「女性差別」「野球は時代遅れ」という批判が高野連に向けて浴びせられたもは周知のとおりだろう。
ただ、私はすこし感情的な議論にではないかと感じる。
そもそも硬球と金属バットは危ない
私は高校野球を3年、大学野球を4年やってきたが、正直硬球や高校野球のめまぐるしいノック練習は、普段練習をしていないマネージャーには危なすぎる。
今回高野連を批判して「女性も同じグラウンドに立たせるべき」と言っている人たちには上記の認識がなさすぎる。
硬球は当たれば人が死ぬこともある。普段練習している男子と、そうではない女性マネージャーではリスクが違いすぎるだろう。
5万人の監修の前で女性マネージャーが死んだら誰が責任を持つのだろうか?
そこを抜きにして今回のルールを批判するのは感情的にすぎる。
問題は古い表記と運用がまずかっただけ
今回の問題は「女性がグラウンドに立ってはダメ」という性別のみで区別した大会規定の表記と、手引に明記されていないにも関わらず、一方的に退場させた点。
これにつきるだろう。しかし大会規定に関しては安全性の配慮もあるから当然のルールであると思う。
時代に即した形にするのであれば、女性がダメと表記するのではなく大会のメンバーに選ばれている選手及び補助員として登録されている選手以外はグラウンドに立てないというルールにすればいい。
これを「女性も立たせろ」というのはおかしい。「立ちたい」から「立たせてあげる」
「覚悟があるのだからいい」という論点では混雑している駅で黄色い線の外側を無理矢理歩いていいというのと同じだ。
危険なものは危険である。何か合った時に責任をとるのは高野連である。
まずはそれを認識して、ルールに対しての批判をしてもらいたい。
なぜここまで高野連は叩かれるのか
高校野球をやってきた人間としては当然のルール運用だと思うのだが、なぜここまで高野連は叩かれるのだろうか。
それはおそらく今回の件以外での高校野球における前時代的な風土に対する批判的な見方が大きいからだろう。
例えば全員坊主であったり、喫煙で連帯責任をとらされたり、チームの為に熱い中連投をしたりと、、
戦前を彷彿とさせる前時代的な集団主義のなごりがおそらく今の時代にあるからだろう。
しかし甲子園が今でも破壊的に人気なコンテンツなのは、上記のような風土や、少し宗教的な一種の"型”が存在するからでもある。
人は役割を与えられ幸福になるーーカンブリア宮殿「ごちゃ混ぜの街作りで地域活性! 」を観て
7月21日放送のテレビ東京『カンブリア宮殿』を観て心が動かされたという話です。
21日の回は金沢の社会福祉法人佛子園を取り上げたお話。
あらすじは下記を読んでいただいたほうがわかりやすいかもれない。
誰もが集う「ごちゃまぜ施設」
今回取り上げられていたのは佛子園が運営するコミュニティ、シェア金沢と西圓寺という福祉施設だ。
シェア金沢は高齢者向けデイサービス施設もあるが、学生や障害者も集う「ごちゃまぜ施設」
学生は格安の家賃で住むことができる代わりに30時間/月のボランティアが課せられている。そのため、入浴の介助などで高齢者と学生が交流できる仕組みができあがっている。
そして障害者もその中で役割を与えられ高齢者と相互に助けあった生活をしている。
西圓寺も同じく住民の集う場所として、高齢者・障害者が「ごちゃまぜ」になった空間で生活をともにしている。
この2施設に共通する「ごちゃまぜ」という考え方が、従来の私たちの考えには及ばないいくつかの奇跡を生み出している
認知症患者と障害者が起こした奇跡
今回の特集では数多くのエピソードが紹介されていたが1番印象的だったエピソードがある。
それは自力で首を動かせなかった障害者と、まともに手を動かすことができなかった認知症の女性のエピソード。
首を動かせない障害者の方は、首が動かせないので、食事の際必ず助けを必要とした。プロヘルパーをもってしても食事をさせるのが困難だった。
そんなある日、認知症の女性がその障害者の方に食事をさせようと試みた。最初は手が震えて、食事をさせることが全くできなかったが、これを繰り返していくうちに、
女性は手が動かせるようになり、障害者の方はなんと首が動かせるようになったというのだ。
TVのキャプチャで恐縮だが、代表の雄谷さんがおっしゃるとおり、プロを置き去りにして奇跡が起きたのだ。
人は役割を与えられることで幸福になれる
佛子園の代表の雄谷さんが言っていたことで印象的だったことがある。
「人はサービスを受ける側になった瞬間に活力を失っていく」という言葉だ。
従来の施設は、子供向けの施設は子供だけ、高齢者向けは高齢者だけ、障害者向けは障害者だけという構成が当然だった。
そしてそれぞれがヘルパー等に一方的にサービスを受ける形だった。サービスを受ける側はそこに役割はない。したがって、できないことはできないまま日々が過ぎていく。
一昨年流行したアドラー心理学は、「人は他者に貢献することで幸せになれる」と謳った。
これが一つの真理であるとすれば、佛子園は理にかなった施設だ。高齢者が障害者に貢献し、障害者も何らかの役割を与えられ、そこに生きがいを見出すことができる。
これからほとんどが何らかの助けを必要とする高齢者になっていく日本社会ではまさにモデルとなるべきコミュニティではないだろうか?
全員にサービス受益者になっていくことは不可能だ。コミュニティを一つの組織として、構成員である高齢者・障害者も含めて全員に対して役割を与え、貢献欲を引き出しそれを埋めていく、、これこそが持続可能な社会を作っていく重要な鍵であると感じた。
粋なメインバンク
ちなみに、この社会福祉法人、ビジネスとしてはまだまだ途上にある。
負債11億円の返済の真っ只中だという。
まだまだキャッシュをどう生めるか見通しが立っていない中で、メインバンクである地銀が融資をしてくれたという。
「佛子園を助けなくて何が地銀だ」
この言葉が地銀の支店長会議で飛び交ったとのことだが、これが本当であれば日本の銀行もまだ捨てたもんじゃない。
体験をデザインすることの重要性
マーケッター界隈では言い古されている言葉かも知れないが、体験をいかにデザインするか、ということの重要性はかなり高まってきている。
モノが溢れている時代、消費者は機能を備えたモノ意外のコト、体験による便益を求めている。
例えば小売業でもこれまでより多くのモノをより安く揃えるということが重要だったが、店に入ってからモノを選んで買うというプロセスがどれだけストレスなく、かつ楽しくできるか、というのがそのショップであったりモールの価値になっている。
最近の小売業ではこの"体験"という言葉はうるさく言われており、最近続々と出来ている東急プラザ銀座や新宿のニュウマン等の新しいモールはそういったユーザーの体験に重きをおいているように感じる。
製造業においてもiPhoneの登場以来、製品の機能よりもユーザーエクスペリエンスのデザインが重要であるということを各社が認識し始めてきた。
Kaizen Platformの須藤さんが「続・インターネットストラテジー」というNewsPicksの連載で
「プロダクト=顧客体験を生み出す全て」といっていたように、製品を認知してから購入し利用または運用するまでの体験全てがプロダクトである時代になっている。
世に出ている新しいツールやサービスには顧客体験までしっかり練られているが残念ながらそうでないものはたくさん多い。
例えばオフィスビル1つとってもそうだ。
これまでは素晴らしい立地に美しい見栄えと強固なセキュリティを兼ね備えたビルを立てておけばよかった。
ただそんなビルはどんどん溢れてきて、そこに有るコンビニの質や場所、飲食店の雰囲気、入館するまでの動線、全てにおいて顧客の期待を上回るようにデザインをしなければ生き残っていけない。
そういうある種の嗅覚的なものがあるかどうか、自分が体験した時にしこりが残らないか、、そこまで考えないとこの日本という消費者が以上に成熟している市場では行きていけない。
そんな感じで最近感じたことをメモったところで、、終了。